当社の歴史

高田商会は明治14年創業以来130年以上の歴史を持つ機械商社です。

明治・大正の一時期には三井物産・大倉組と並ぶ大商社として事業を拡大し、当時の3大商社の一つに数えられている。
「明治富豪史」に依ると「日露戦争で事業を拡大した岩崎一家や三井一家、藤田伝三郎などと共に、陸軍省の御用を受けた大倉喜八郎と海軍省の御用を受けた高田慎蔵は、東西の両大関だろう」との記述があり、三菱、三井など財閥とも肩を並べる大企業だったとの資料が残されている。

商会設立の背景

明治初期における日本の貿易は外商と称されていた商館による独占状態にあり、こうした状況を改めるべく1880年(明治13年)、太政大臣三条実美により、政府機関が外国製品を調達する際には邦人による貿易会社(内商)を優遇するよう内達が出された。


■1914年(大正3年)新築なった本店。

これにより外商の兵器商社であったベア商会は取引が激減する中 廃業を余儀なくされるが、そのベア商会の番頭であったのが後の高田商会創設者高田慎蔵である。ベア商会は内商であることを明確にするため高田慎蔵を名義人とした上、銀座三丁目18番地に新しく店を構え、ベア商会の商権も同商会に買い取られた。
こうして1881年(明治14年)高田商会は誕生した。



創業者・高田慎蔵
高田慎蔵は、佐渡の出身。
明治新政府のもと、佐渡県外務調査役兼通訳を務めたのち、明治3年、19歳で上京し、外国人商会ベア商会に通訳兼事務官として勤務。
明治13年(1880年)、ベアの廃業の後を継ぐかたちで、アーレンスとスコットと共同経営で高田商会を設立した。


当時の状況

欧米より輸入した機械・船舶・武器・軍需品などを中心に取り扱っていた高田商会にとって、富国強兵を掲げ近代化を推し進めていた当時の状勢は追い風となった。

明治20年(1887年)慎蔵は、欧米諸国を歴訪し翌21年(1888年)帰国、新組織にして改めて高田商会を設立。鉱山採掘ドリルや送水ポンプ、軍艦などを輸入し事業を拡大、ニューヨーク・ロンドンにも支店を設けるなど、当時の最先端情報を展開する一大商社となっていった。




成長する高田商会

(英)アームストロング社から、日露戦争の日本海海戦で活躍することになる軍艦の売買契約を行うなど、明治29年(1896年)再び欧米を視察訪問。関連会社として高田鉱業、旭紡績、永楽銀行を創設。また、1897年(明治30年)八幡製鉄所建設の際には設備を納入、明治32年(1899年)にはアメリカの電気機械メーカー、ウエスチングハウス社の代理店になる。
明治41年(1908年)合資会社(資本金100万円)に改組。慎蔵は汽車製造や細倉鉱山への資本参加も行い、同鉱山は1911年(明治44年)には高田鉱山と改称、1918年(大正7年)には高田鉱山株式会社を設立している。

日清・日露戦争を機に海軍省御用となり軍需品を納め大きな成長を遂げることになったが、日露戦争時のエピソードには、ロシア内政崩壊をもくろむ日本海軍から特命を受け、時のロンドン支店を使い、秘密裡にロシア国内へ大量の武器を持ち込む工作に従事し、「その功をもって高田慎蔵は勲三等に叙された」とある。
その後 同商会は有力機械輸入商社に成長し、1903年(明治36年)に開催された内国勧業博覧会に自動車部品を出品、その後自動車や自動車部品の輸入・販売を手がけるなど、次第に総合商社として業容を拡大していく。因みに自動車の輸入第一号車は高田商会が輸入し操作方法などを指導したと言われている。

第一次大戦の前夜の(1914年)頃、日本では電気事業が急速に発展したが、米ウェスティングハウス社の日本総代理店だったこともあり、国内の近代化整備への商会の存在は非常に大きなものとなり、当時の好景気ともあいまって、右肩上がりの成長が続く事となった。
また、精密機械、電気の絶縁材料などにも注力し、東京の都市電化へ貢献した。東京市内の街灯のすべてが、一夜にして変わった時の施行会社は、高田商会であった。




二代目・高田釜吉
創業者の高田慎蔵は大正8年(1919年)引退し婿養子釜吉(釜蔵)(田中平八の3男)に経営を譲った。
明治初期の大実業家であり、財界の大物でもあった田中平八。その田中平八の三男が田中釜吉である。
釜吉は明治25年、ドイツに留学し、ベルリン工科大学で機械工学を学んだ技術者で、34年に帰国後は、芝浦製作所に入社。さらには、東京電灯(現・東京電力)に招かれ、技術部副部長の要職に就き、技師として前途有望な人材であった。
しかし、釜吉の存在を知った高田慎蔵により、釜吉こそ高田商会を任すに足る人物と見出され、3女の養子に迎え入れられると共に副社長に就任する。
そして、大正元年に慎蔵は釜吉に采配を譲り、自らは56歳で顧問に退いた。
高田釜吉は、妻・雪子との間に一女・愛子をもうけた。
一技師であった高田釜吉は、入社と同時に副社長として迎えられ、大正元年、大商社の二代目経営トップとなった。
事業の拡充に尽力する一方、花柳界での豪遊ぶりから、業界内では広く「釜大尽」と称された。



高田商会のその後

欧州大戦中(大正3~7年)は、時の勢いも手伝って、業績は大いに伸びたが一次大戦後の戦勝各国の思惑もあり、1922年ワシントン会議での取り決めにより、戦勝国も含め兵器生産数に一定の歯止めが掛かけられる事になり、軍事産業界自体の情勢が大きく変化することになった。また高田鉱業所有の銅山工場が全焼する事故などが起き、大正12年9月には関東大震災により、本店が焼ける商会経営にも大打撃を受けることになる。


■関東大震災により倒壊した本店。

明治・大正と隆盛を誇った同商会も大正14年(1925)2月に整理会社となるが、その後整理案が策定され、同年8月1日には新会社の株式会社高田商会が設立された。それは第2次高田商会と呼ばれ、本来の輸入業の他に国内メーカーと提携し、優良機器の国産化を進め、主に国内販売を基に輸出業務にも進出した。
第2次高田商会は1963年(昭和38年)に日綿実業の機械部門として(現在の双日)吸収合併される事となったが、当時の取引先の強い要望により、第3次株式会社高田商会を設立し、現在に至る。



家系

高田慎蔵と妻のたみ子(1853年生)は七男五女の子をもうけた。次女・雪子(1885年生)の婿に田中平八の三男・釜吉(1876年生)を迎え、慎蔵の事業を継がせた。

孫娘にピエール・カルダン専属のファション写真家として知られる高田美(たかたよし、1916-2009)がいる。戦後AFP通信社で働いたのち、38歳で渡仏後写真を始め、カルダンと日本を結ぶ窓口として活躍し、日仏交流の功労者としてフランス政府、パリ市から叙勲された。

高田釜吉は、妻・雪子との間に一女・愛子をもうけた。
一人娘の愛子は、医学博士で、国立予防衛生研究所副所長を務めた北岡正見に嫁いだ。
その間に生まれた長男で、北岡姓であった祐一が、後に、高田家の養子に入り、高田祐一となった。高田祐一は、高級外車の輸入販売を中心とした「UNION・高田商会」を経営した。





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